橘曙覧評伝 / 折口信夫
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上にばかりあつて、下は極めて昏かつたのは、福井藩ばかりではなかつた。僅か三百年の習癖によつて、動く事より知らぬ
きれないものがあつたに違ひない。此点では、福井藩の人々と、悲しみを頒つことは出来なかつたであらうし、又さうし
した事をうち明けて、一町人に謀らふ程、福井藩も、小くはなかつたのである。
な思想を抱いて居たに違ひない。又、其が福井藩上層の指導精神でもあつたゞらう。
て、彼を見たとばかりも考へられない。当時の福井藩は、猶他藩と同じやうに、必しも打てば響くと言ふほどには、
か。直接にかうした心を寄すべき人は、福井藩に関係深い人に違ひない。さうして、神国の業を汚すまじと努力
に習うたかどうかは訣らぬが、古風の歌の福井藩に行はれた初めを、曙覧二十五・六・七歳頃からと見れば、
尊重した痕も明らかだ。彼の庇護者と見るべき福井藩の重臣中根雪江は、平田門に入つた人である。又門人芳賀真咲(
のは、時が降り過ぎるかとも思はれる。が、福井藩の動き方から見ても、立ち上りが遅かつた理由が、こんな処にある
中根氏であつた。国学者の理想は、かうして、福井藩に入つて来たのである。
かうして見ると、福井藩における勤皇は、文芸復興の清純な歩みから出たもの、と見て
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考へることが出来る。八月大野路を穴馬越えして、美濃郡上に出、其から高山へ出て、其処に宿を定めて、大秀の
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ところが、第二首の力弱さは、どうだ。蝦夷の大刀ならねども、へろ/\で、幾重にもくづほれてゐる
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、先にあげた祝詞及び、「師翁の御許に、飛騨国に物学にまゐでゝよめる」長歌との間に、今人には矛盾
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平藩皆降る。廿五日、桑名に到らせられる。長岡藩主牧野忠訓、謝罪降伏。廿六日、熱田に著かせられる。翌廿七
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先鋒を命ぜられる。十三日、京都では、大久保利通、江戸の事態を陳べ、発輦の期が定められる。諸侯の国々の状況で目に
を以て感じることは、固より出来なかつたであらう。江戸将軍家の親藩であつたゞけに、春嶽主従の忠誠は目立つたが、其と
た状態は、国を売るものと謂つた誤解までも、江戸に集注した。だから攘夷の事を遂げようとすれば、王朝の昔に
併しこゝに、考へねばならぬ事がある。一体、江戸将軍親藩の主或は公子で、凡愚でない人は、凡新文化の意義を
に入つて居る。又二十八歳の天保十年には、江戸に遊んでゐるのである。平田鉄胤門その他、皇漢の学徒の実行
曙覧の江戸に出たのは、二十八歳、天保十年のことであつた。勿論江戸
は、二十八歳、天保十年のことであつた。勿論江戸は此時限りでなく、恐らく此前にも、武生の伯父の使ひとし
ものと見られるから、従つて中根以下の人々も、江戸在番であつたであらう。さうした機会に、曙覧は江戸へ出る都合が
在番であつたであらう。さうした機会に、曙覧は江戸へ出る都合が出来たのではあるまいか。此年、曙覧の出た
昔からの由緒を申し立つる陳状役に選ばれて、江戸へ出たものと思はれぬでもない。賜松館には、彼の
出た、ある近代調と言ふことになるのである。江戸の田安宗武ほど、独自の万葉調をなした人も少い。其にも繋ら
が、一番正しいのである。だが、此文には江戸に出た年すら誤算してゐる程だ。其上幾分大秀・曙覧の関係
、小伝と一致してゐるのは、「天保十年遊江戸。既而意有所決、譲産於弟、専従文学。」とある所だ。
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べくもない。其に亦、甲斐の山と言へば、富士山すらも見えぬ処である。年月立つて後、記憶にたよつて整理し、
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藩。湯長谷藩・平藩皆降る。廿五日、桑名に到らせられる。長岡藩主牧野忠訓、謝罪降伏。廿六日、熱田に著か
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女みまかりて後、いくばくもあらぬほどに、山本氏がり府中にものして帰るさ、れいは待ちむかへよろこべりし、をさない
府中の松井耕雪が、大きなる黒木もて作りたる火桶くれけるを、膝のへ
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陵修繕の許しを請ふ。翌十三日、東京著御。江戸城を皇居と定め、東京城と称する。十七日、朝堂に臨ませられ、万
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ゐるのである。思ふに弘化三年の事であらう。越前の国の門弟等の招きに応じると共に、恐らく、右の継体天皇御世系に
大秀、御世系の事を研究して得た結果を、越前の国に碑文として残さうとの考へのあつた処へ、曙覧が弟子
のはかどりを見に来た意味もあつたのである。越前に相当にあつた大秀門人の間に、曙覧の名は知られる事になつ
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第一集「松籟艸」の巻頭三首は、足羽山に住みはじめた頃のものと言ふので出したのである。さうして
から還つて後、決心して家産を弟宣に譲つて足羽山に退去し、その後田中大秀に就いた。弘化三年としての記事は
祝うてゐる。足羽社の神主と謀つて、我が住む足羽山に建てることゝなり、同国の同門池田・山口等六人と共に、其
嘉永元年には、福井三橋町に移ることになつた。足羽山の住ひは、妻子の為には、不便極りなかつたらうし、又其が人目
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して聴されてゐる。東北では、伊達慶邦(仙台藩主)謝罪降伏歎願書を、奥羽追討平潟口総督四条隆謌に上り、板倉勝尚(
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同じ国なる千種園にて、甲斐国のりくら山に雪のふりけるを見て
つた当時ならば、或はなかつた筈の誤りがある。「甲斐国のりくら山」とした序である。乗鞍嶽は、高山からは東
同じ国なる千種園にて、甲斐国のりくら山に雪のふりけるを見て
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たのではないか。昔の家庭であり、又殊に北陸地方の事であるから、一家の中に、所謂戸主の三等尊親などなる
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此日、榎本武揚・大鳥圭介等、八隻を率ゐて箱館に出奔。大和柳本城主織田信及、崇神・景行二聖陵修繕の許しを
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松戸にて、口より出づるまゝに
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、自尊する弊を除かしめる命が出た。十一日、神奈川を過ぎさせ給ふ。その際、諸外国の船艦祝砲を奉る。十二日、品川に
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総督として征途に就かれ、廿七日には、敦賀に次られてゐる。その二日前、八月十日には、鹿児島から
ついて案を練る考へであつたのだらう。福井から敦賀に遊んで久しく留つたのに送つた彼の「角賀のうみ。来依る
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橘曙覧が、越前福井三橋の志濃夫廼舎で、五十七年の生涯を終へたのは、慶応四
冠服皆唐制に拠つたのを廃せられた。越前福井までは、まだ其御儀の仔細が、伝聞せられるに到らなかつた
親王、新発田城を本営とせられる。三日には、福井藩主松平茂昭、命を受けて、永平寺の宗規を調べ定めることゝなる。
上にばかりあつて、下は極めて昏かつたのは、福井藩ばかりではなかつた。僅か三百年の習癖によつて、動く事より
から、容易に藩士の動向は定らなかつた。殊に福井藩では、藩主初め在京する時の方が多かつたから、一致し
松平春嶽や、中根靱負(雪江)や、橋本左内等の福井藩の主従が、此間に経過した苦悩を、身を以て感じること
、鎮撫総督を北陸道先鋒総督と改めた。十五日、一行福井に入つた。上の歌に見えた歌らしいのびやかな所のあるのは
過ぎてゐる嫌ひはある。此は前のを、鎮撫総督福井来着の時のものと見て、其よりも更に先だつ、慶応三年の
此と同じ佐幕党が多かつたのである。況して、福井ほどの親藩であつて見れば、江戸将軍に感謝の心を持つた者
した事をうち明けて、一町人に謀らふ程、福井藩も、小くはなかつたのである。
きれないものがあつたに違ひない。此点では、福井藩の人々と、悲しみを頒つことは出来なかつたであらうし、又
な思想を抱いて居たに違ひない。又、其が福井藩上層の指導精神でもあつたゞらう。
て、彼を見たとばかりも考へられない。当時の福井藩は、猶他藩と同じやうに、必しも打てば響くと言ふほどに
。さればこそ、様々新しい文化を移植しようとした。殊に福井の蘭医笠原良策――白翁の建白によつて種痘法を初めて採用し
かつた様である。其中でもとりわけ、田安家から福井に入つた慶永――春嶽は、それの目につく人である。されば
か。直接にかうした心を寄すべき人は、福井藩に関係深い人に違ひない。さうして、神国の業を汚すまじ
、鉄砲隊を組織して、弓・長柄組を廃め、福井でゑんぴいる銃を製造し、大砲を鋳て、蘭法砲術師範を
に習うたかどうかは訣らぬが、古風の歌の福井藩に行はれた初めを、曙覧二十五・六・七歳頃からと見れ
の「真雪草紙」によると、鏑木(?)尚平の福井に来たのは、二度だとある。はじめは、天保七・八
尊重した痕も明らかだ。彼の庇護者と見るべき福井藩の重臣中根雪江は、平田門に入つた人である。又門人芳賀
たかも知れない。ともかく町人出の人であつた。福井の由緒古い町人の家に生れた彼であることから、考へはじめねば
それに第一、彼の育つた福井・武生は、幕末動乱の時代をわりに、家中は静かに経過した
・三十一・三十二、曙覧二十五・二十六・二十七の頃、尚平福井遊歴があつたのだから、篤胤没年の天保十四年までは、六年
のは、時が降り過ぎるかとも思はれる。が、福井藩の動き方から見ても、立ち上りが遅かつた理由が、こんな処
学も歌も、其感化を受けたとある。春嶽自身福井藩勤皇の導きをなした者は、右尚平の古学・古歌の運動で
松平春嶽は、福井に古学・古体歌の行はれるやうになつたのは、天保七・八
、渥美新右衛門・中根雪江・橘曙覧。平本平学……福井にて勤王の志を立てたるもの、また勤王の起りしは、外になし
中根氏であつた。国学者の理想は、かうして、福井藩に入つて来たのである。
相当の造詣を示してゐた曙覧の学問・文学が、福井藩の士人に認められ、愛せられてゐたに違ひない。さうして
かうして見ると、福井藩における勤皇は、文芸復興の清純な歩みから出たもの、と
此前年の九月には、田安斉匡の子慶永が、福井藩主松平斉善の嗣子となつて、翌月封を襲いだ。此が春嶽で
ある。其道を昨日行つて今日還ると言ふ風に、福井には戻つてゐる。
ゐるのである。大秀も亦、此道を越えて、福井へ往来しても居るのである。其道を昨日行つて今日還ると
従来の考へ方では、彼の生家が福井の旧家であり、富裕な紙商であつたのを棄てゝ、異母弟に
今滋の考へには浮んだのではないか。ともかく福井の市中を離れるやうになつた時、我々の想像するやうな幸福な
の義理である。さすれば、曙覧の、年たけて福井の家に連れ戻された理由も訣る。さて其後の解決は、一筋に
に奔つたとすれば、山本家からも勿論だが、福井の家の関係者が棄て置く訣にはいかなかつた。此は親類間の
武生に居たから、通ふことが出来たので、福井からは日をきめての通学も出来よう訣はない。此明導師から何
世系について案を練る考へであつたのだらう。福井から敦賀に遊んで久しく留つたのに送つた彼の「角賀のうみ
到る満三年の間に、高山から来訪した師を福井に迎へてゐるのである。思ふに弘化三年の事であらう。越前
たらうし、又其が人目を惹いて、四季の物見に福井人が、絶えず立ち寄つて、却て静かな思ひに叶はなかつた
嘉永元年には、福井三橋町に移ることになつた。足羽山の住ひは、妻子の為には
言へば、弘化三年或は四年であるが、大秀が福井・敦賀を訪れたのは、三年のことで、曙覧が入門した
安政二年に書いたことがわかる。元年六月に、福井の大火があつて、『藁屋』もやけて、再建せられたので
でゐたのである。森さんの記述によると、福井米町の内藤理右衛門――内藤言寿か――が敷地を提供し、
は、父五郎右衛門の十七年忌を修した。其頃はまだ福井の町中に住んでゐたのであらう。
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この英雄風な最期の記述せられてゐる日は、京都では、既に東京行幸の為の訓諭が出るまでに、新代の光りが
、総督宮に拝謁して、新潟に向つてゐる。京都では、八月九日、加茂社行幸がある。
謁して謝罪し、会津征伐先鋒を命ぜられる。十三日、京都では、大久保利通、江戸の事態を陳べ、発輦の期が定められる。
られる。かうして、九月廿日には、愈、京都御発駕あり、廿一日石部、廿二日土山に著かせられて
である。現に天保の初年、二十を越したばかりで、京都に奔つて、児玉塾に入つて居る。又二十八歳の天保十年に
して、ともかく家人らの解釈の中には、此頃京都における学徒の気風についての虞れが籠つて居なかつたと
がついたのと同じことである。若し、若い彼の京都への出奔が、町人出の志士を見習うてのことゝすれば、尚
わりこむやうな形で戻らなければならなかつた。彼の京都へ出た原因も、こゝにあるのだらうか。
其結果、学問によつて身を立てようと決心して、京都に奔つたとすれば、山本家からも勿論だが、福井の家の
あつたのを見て、三月四日には、もう京都へ出てゐた。仁孝天皇を泉涌寺陵に葬り奉るのを拝むとてゞ
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が、柏崎に来着して、総督宮に拝謁して、新潟に向つてゐる。京都では、八月九日、加茂社行幸が
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てゐる。その二日前、八月十日には、鹿児島から廻航した西郷隆盛が、柏崎に来着して、総督宮に拝謁し
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を、奥羽追討平潟口総督四条隆謌に上り、板倉勝尚(福島藩主)官軍に降る。
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して聴されてゐる。東北では、伊達慶邦(仙台藩主)謝罪降伏歎願書を、奥羽追討平潟口総督四条隆謌に上り、板倉
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。十七日には、和気清麻呂・楠木正成・児島高徳を岡山藩下に合祀することを許してゐられる。かうして、九月廿
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せられる。翌廿七日、熱田神宮御親謁。羽後松山藩・亀田藩降る。東征大総督参謀西郷隆盛、鶴岡入城。
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近道であるから、飛騨から越中路へ来る人も、又富山からする江戸往来にも、多く之を取り、曙覧も若い武生時代に通
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秋田家
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雨ふれば、泥踏みなづむ大津道。我に馬あり。めさね。旅びと※
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最期の記述せられてゐる日は、京都では、既に東京行幸の為の訓諭が出るまでに、新代の光りが照りわたつてゐ
翌十三日、東京著御。江戸城を皇居と定め、東京城と称する。十七日、朝堂に臨ませられ、万機親裁の事告げ
・景行二聖陵修繕の許しを請ふ。翌十三日、東京著御。江戸城を皇居と定め、東京城と称する。十七日、朝堂
。」とある。其後九年、明治三十六年九月東京冨山房から開板した『橘曙覧全集』には、今滋の書いた
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、会津征伐先鋒を命ぜられる。十三日、京都では、大久保利通、江戸の事態を陳べ、発輦の期が定められる。諸侯の国々の
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給ふ。その際、諸外国の船艦祝砲を奉る。十二日、品川に入り給ふ。此日、榎本武揚・大鳥圭介等、八隻を率ゐて