死者の書 / 折口信夫

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地名一覧

元興寺

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である。早く、此都に移って居た飛鳥寺―元興寺―から巻数が届けられた。其には、難波にある帥の殿の立願

た「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊な

此巻が渡った時、姫は端近く膝行り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、

其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本びとなる

たと言うし、楽毅論から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習いしたらしいし、まだまだ孝経などは、これぽっちの

春日山

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発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、昼も苑

多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山の墓原

鹿島

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に二度ずつ、其外、週り年には、時々鹿島・香取の東路のはてにある旧社の祭りまで、此方で勤めねばならぬ

筑前

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子古は思い出した。今日か明日、新羅問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、

河内

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これで大和も、河内との境じゃで、もう魂ごいの行もすんだ。今時分は、郎女さま

知らぬかいよ。大和にとっては大和の国、河内にとっては河内の国の大関。二上の当麻路の関――。

。大和にとっては大和の国、河内にとっては河内の国の大関。二上の当麻路の関――。

守らせよ、と言う御諚で、此山の上、河内から来る当麻路の脇にお埋けになりました。其が何と、此

村にありながら、山田寺と言ったからである。山の背の河内の国安宿部郡の山田谷から移って二百年、寂しい道場に過ぎなかった。其でも

ある。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した

葛城

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に見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城の峰々である。伏越・櫛羅・小巨勢と段々高まって、果ては空

の足代になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人の間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍

暴風雨の夜、添下・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、

飛鳥

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の間から、急に降って来るのである。難波から飛鳥の都への古い間道なので、日によっては、昼は相応な

伝えでは、万法蔵院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言う

とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子様のおそば近く侍る尊いおん方。ささなみの

近江の都は離れ、飛鳥の都の再栄えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、

山と山との間に、薄く霞んでいるのが、飛鳥の村なのであろう。父の父も、母の母も、其又父母

ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すっかり違った

代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、

代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城なども高く、幾

其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様の思召しで、其から一里北の藤井个原に

正しさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来の高麗馬に跨って、馬上で通う風流士もあるには

磐余

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のだっけ。そうだ。訳語田の家を引き出されて、磐余の池に行った。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あし

に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々、磐余の池の草の上で、お命召されると言うことを聞いて、一目

もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ

東大寺

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強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには

滋賀

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で、何の標もなかった。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かった、其よ。大和では、磯城の訳語田の御館に居

難波

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女岳の間から、急に降って来るのである。難波から飛鳥の都への古い間道なので、日によっては、昼は

貶されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に

ところだけに、心得のある長老の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。

―元興寺―から巻数が届けられた。其には、難波にある帥の殿の立願によって、仏前に読誦した経文の名目が

である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の

難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した

問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれる

すぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。

聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に

が、兄公殿がああして、此先何年、難波にいても、太宰府に居ると言うが表面だから、氏の祭りは、

。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥として、難波に居た横佩家の豊成は、思いがけぬ日々を送らねばならなかった。

飛鳥寺

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中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺―元興寺―から巻数が届けられた。其には、難波にある帥の

伊勢

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おおそうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び

越中国

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作るなら、とつい聯想が逸れて行く。八年前、越中国から帰った当座の、世の中の豊かな騒ぎが、思い出された。あれからすぐ

吉野

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を創める最初の足代になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人の間に行われていた。何しろ、万法蔵院

筑紫

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つぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠くとも、姫などはそう信じて居た。家族の半以上は

目と鼻の難波に、いつか還り住んで、遥かに筑紫の政を聴いていた帥の殿であった。其父君から遣さ

―あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐たれなされた前太宰少弐―藤原広嗣―の殿に生写しじゃ、と

十条

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女たちの噂した所の、袈裟で謂えば、五十条の大衣とも言うべき、藕糸の上帛の上に、郎女の目はじっとすわって居た。

奈良

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ばならぬと思った。其で、今日昼の程、奈良へ向って、早使いを出して、郎女の姿が、寺中に現れた

万法蔵院の上座の僧綱たちの考えでは、まず奈良へ使いを出さねばならぬ。横佩家の人々の心を、思うた

今、奈良の宮におざります日の御子さま。其前は、藤原の宮の

目を※って居るだろう。此郷に田荘を残して、奈良に数代住みついた豪族の主人も、その日は、帰って来て

なことは、此郎女――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、ここまで歩いて来ているのである。其も

横えて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まだそうした官吏としての、華奢な服装

郎女の家は、奈良東城、右京三条第七坊にある。祖父武智麻呂のここで亡くなって後

れて、皆任地へついて行った。そうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が来た。

歴史の後、ここ五十年、やっと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なかなか整うまでには、行って居なかっ

寺の浄域が、奈良の内外にも、幾つとあって、横佩墻内と讃えられている屋敷

北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考え浮べることも、しなかったであろう。まして、家人たちが

見れば、奈良のお方そうなが、どうして、そんな処にいらっしゃる。

此時分になって、奈良の家では、誰となく、こんな事を考えはじめていた。此

奈良の都には、まだ時おり、石城と謂われた石垣を残して居る家

がお立ち遊ばした。その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。ところがまるで、追っかけるように、藤原の

神聖を誇った者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気が

ば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た

ことは、時たま、世の中の瑞々しい消息を伝えて来た。奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した、広いものであっ

する。其を績み麻の麻ごけに繋ぎためて行く。奈良の御館でも、蚕は飼って居た。実際、刀自たちは、夏

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良に還って、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、

其より外には、方もつかなかった。奈良の御館の人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴い

郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも、候人や、

の氏では、古麻呂。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらは漢魏はおろか、今の唐の小説なども、ふり向き

の思いやりから、男たちの多くは、唯さえ小人数な奈良の御館の番に行け、と言って還され、長老一人の外は、

。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山

たちには、稀に男の声を聞くこともある、奈良の垣内住いが、恋しかった。朝になると又、何もかも忘れ

は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機を、設てたからである。機織りに長けた

、もうに二三日に迫った八月の朔日には、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から

に増し、外は冷えて来る。人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。郎女は、暖かい昼、薄暗い

、身狭乳母の計いで、長老は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。

郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色の数々を思い出した。

大津

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のみ子様のおそば近く侍る尊いおん方。ささなみの大津の宮に人となり、唐土の学芸に詣り深く、詩も、此国ではじめて

呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々、磐余の

、と云うでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居

おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦。其