万葉集研究 / 折口信夫
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及び臣のつめる処を、かむだちと称へたからだ。伊勢神宮で、※の字を宛て、他の社々でも、神館と称してゐる。
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に見える。蘇我氏の旧林泉の没収せられたものらしい飛鳥京の「島の宮」は、泉池・島渚の風情から出た名らしい。而も、
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祓への結果田を荒さぬ誓ひを立てた事を、出雲国造の国で行うたのである。其旧事が直に、地上の呪法となる
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、神くだりいませまつりし、高ひかる日の皇子は、飛鳥の浄見原に、神ながらふとしきまして、聖祖のしきます国と、天
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。風俗歌が短歌を本位とせないのは、東の催馬楽と言つた格にあつたからである。古今集のは、まだ祭儀関係は
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難波津に御船泊てぬと聞え来ば、ひもときさけて、立ちはしりせむ(巻五
知れぬ。遠く別れて居た者の、我が土地――難波津は、大和の国の内と観じたのだ――家に還り来ると、
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の「千載佳句」がある。此系統をたぐれば、更に奈良盛期になつたらしい、万葉人の詩のみを集めたと言つてよい―
形は、上元の踏歌である。踏歌の詞章には、奈良朝には、宮廷詩なる大歌が謡はれた事もあるが、平安
見られる。恐らく右の皇子の編纂であらう。さうして奈良前の物を、大歌の本格と見てゐた事が察せられる。
、長皇子が、書いたらしい様子を見せてゐるから、奈良朝の初期に成書となつて居たものと見られる。恐らく右の皇子
平城天皇となられても、深く浸みついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。
、短歌様式の流行であつた。恐らく、藤原の都から奈良京へかけてが、短歌の真に独立した時代と思はれる。かう
東歌は、奈良朝時代だけのものでも、万葉集限りのものでもなかつた。古今集
奈良朝における東歌は、さうした宮廷の年中行事の結果として
詩賦と倭歌とを自由に作つた。此は、奈良朝を通じて尚行はれた学者の技能であつた。
よごとつくりのつかさの為事であつたらしい。其後、奈良朝になつて、宣命の続々と発せられたのも、この司設立以来
て、その徴候は既に顕れて居る。大歌類の中、奈良朝末までくり返されたのは、奏寿の賀歌としての短歌
大歌の領分は狭められて了うたのである。しかも、奈良の盛期に於て、その徴候は既に顕れて居る。大歌類の中、
から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の動いて居る時代の、宮廷並びに世間の内生活
てゐる時代即、飛鳥末から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の動いて居る時代の
万葉の中心となつてゐる時代即、飛鳥末から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の
たからである。聖徳太子を上宮法王と言ひ、又降つて奈良の道鏡にも、其先蹤による称号を与へられたのも、此
の如きは、長い作も創作してゐるが、此は奈良末の復古熱から出た擬古文に過ぎない。此人などは、恐らく
ほど、地位低くなつた。采女は下級の女官となり、奈良朝までの采女は、女房として高く位づけられた。けれども巫女
様である。此間の「女」の時代は実は、奈良以前からの、長い宮廷巫女生活の成果である。
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還れ」。此に近い意だらう。後の者は、上野の民謡故、さぬ――又、さつ――なる木を言ふ為に
用ゐるのだ。大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやすと言ふのも「さぬのくゝたち」の歌
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藤原の大宮づかへ 現れ続がむ をとめが伴は、ともしきろかも(
を見ても、宮中の巫女の交る替る現出して大宮仕へをする信仰が窺へる。