短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし / 折口信夫
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家持は平安の都に遷る前、長岡の都造営中に亡くなつた。晩年になつて一度、死後にも復、
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及び誹諧の成立の為に効果を顕したのである。鎌倉初めには、歌・連歌、有心・無心の対立となり、室町になつては
た形の細みは稍、形が歪んで出て居る。鎌倉室町の京・東の五山の禅僧の漢文学の影響を、極度にとり入れた
、江戸の俳人の象徴派が試みたことは、彼が鎌倉の末に手をつけて、失敗の轍を示して置いたのであつた
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無刺戟に、円らかな調子が、今少し揺ぎ出し、せめて京極系統の客観態度が出て来てゐたら、もつと我々を感激させること
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、足並みを揃へた曲節であつたらう。かうして室町から江戸に持ち越したなげぶしなどの、擬古的な文句に仮りに用ゐられて、ど
しめたのも無理はない。唯、短歌に於ては、江戸にも明治にも、さびに煩はされたものはなかつた。けれども
芸術の破壊であることを知らなかつた。けれども、江戸の俳人の象徴派が試みたことは、彼が鎌倉の末に手をつけ
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、趣向を練つたりする様な――見せばやな。志賀の唐崎、麓なるながらの山の春の景色を(慈円)――暇つぶしの
桜さく比良の山風、吹くまゝに、花になりゆく 志賀の浦なみ(千載集)
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二 奈良朝の短歌
奈良朝に入つての短歌は、其価値の問題はともかく、かうした文学
奈良朝後半期には、長歌は既に古典化しきつてゐた。憶良の社会
民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四で
ゐたと見える古い詞章の短歌成立以前の形と、そして奈良の都盛時或は末期に、短歌を離れて、前代の形に近づきながら、
奈良の古詞憧憬は、儀礼・宴遊の詞章を神聖視した為で、
ての古い神秘を忘れなかつたからである。だから、奈良朝末に、短歌製作気分が衰へてゐたとしても、家持の
様式を極端に固定させて、自在を失はせた。奈良の宮廷詩人・貴顕文人等の間に幾度繰り返されても、生命のない
愛しむ心とおなじ心持ちが感じられる。家門を思ふ彼は、奈良の世の果ての独りであつたが、神経や、感覚は、今の
舞のないものは、新宮廷詩の創作の盛んだつた奈良或は其前から、伝へる者も張り合ひなく、永劫の世界に持ち去られた
は唯一文学としての位置を占め得た。その為奈良の盛時までもあつたらしい宮廷詩人の為事が、辛うじて勢を盛り返して、
、平城天皇の時代の事であつたらしい。此天子は奈良の古風な生活に愛著深く、情熱も強く、作品も(疑はしいが)
は既に伝来してゐたと信じる)の艶文学が、奈良の貴族や、学者を魅した力は、平安の都にも持ち越されて
。其外は概して、驚くほどに騒々しいものばかりである。奈良以来、僧家の歌は、宮廷流行の表現法には遠い古風なもので
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へ残しがある。其は雰囲気の力である。当時の京都の文壇主義の影響である。経信に著しく見えた幽情が、公卿の
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霞立つ末の松山。ほの/″\と、浪にはなるゝ横雲の空(家隆)
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寂然の「……大原の里」、慈円の「……住吉の神」――首句と尾句とを各同じにして、趣向