万葉集のなり立ち / 折口信夫

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地名一覧

奥州

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は、足柄山を越えて遠江までも延び、東北は、奥州の果迄を籠めて居る。蝦夷の勢力の消長につれて、あづまの内容

蝦夷

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も延び、東北は、奥州の果迄を籠めて居る。蝦夷の勢力の消長につれて、あづまの内容が伸びも縮みもした事で

奈良

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(例)奈良宮御代

一 奈良の宮の御代

説を提出してゐるのは、袋冊子である。併し奈良宮御代といふ言葉は、度外視せられてゐる。

ばかりである。仮名序に拠ると、万葉集の出来たのは奈良の宮の御代で醍醐天皇から十代前、年数は百年余以前、

処が、奈良宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下の「聖武

処が、奈良宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下

此書の記載を信じれば言へる。其に今一つ、万葉集が奈良朝のものだと定めたい考へが、既に古くからあつた筈だから、

として、遂げられなかつたのである。こゝに奈良以前の歌を集大成しようと言ふお考への起り相な一つの根拠が

失敗せられたのが、薬子・仲成の乱である。奈良の生活に憬れ、万葉の生活に憧れ、万葉びとの生活を再しようと

早良太子の轍を踏んで、平安の新京を棄てゝ、奈良の旧都に復しようとして、失敗せられたのが、薬子・仲成の

大伴集の手に入つたのを機会に、奈良以前の歌集を勅撰しようとの企ては、どうしても現れなければなら

音楽部即、大歌所は附属のやうな形であつた。奈良朝以来、雅楽寮の事を歌舞所(本集)或はうたまひのつかさ

日本音楽部として二百五十人からの職員を持つて居た奈良朝の様子(令)は、なか/\侮られなかつた。神祇を

て来る。人麻呂も既に、其俤を見せて居るが、奈良朝に入ると、愈著しく現れ出して、旅人・憶良の時代になると

其が家持になると奈良朝も終りで、倭歌の上に固定が目に立つて来る。併し