死者の書 ――初稿版―― / 折口信夫
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仏本伝来記」を、二年目の天平十八年に、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かつた寺なり、本尊
此巻が渡つた時、姫は端近く膝行り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
た。其からと言ふものは、来る日も/\此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本の人なる
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をして居る。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は昼も鳴くやう
多く見出される場処と場処とは、残りなく捜された。春日山の奥へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山の墓原
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明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中に居る知り人に、
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村にありながら、山田寺と言つたからである。山の背の河内の国安宿部郡の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其で
国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る当麻路の脇にお埋けになりました。其が何と此世
これで大和も、河内との境ぢやで、もう魂ごひの行もすんだ。今時分は、郎女
知らぬかいよ。大和にとつては大和の国。河内にとつては河内の国の大関。二上の当麻路の関。
。大和にとつては大和の国。河内にとつては河内の国の大関。二上の当麻路の関。
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暴風雨の夜、添上、広瀬、葛城の野山をかちあるきした姫ではない。乳母と今一人、若人の肩
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、山と山との間に薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。祖父も祖々父も其父も皆あの辺りで生
は藤原の宮の 日のみ子さま、其又前は飛鳥の宮の 日のみ子さま、大和の国中に宮遷し宮奠め遊した
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられ
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ
「もゝつたふ」の歌を残しなされた飛鳥の宮の執心びとも、つまりはやはり、天若みこの一人で御座りまする。
の間から、急に降つて来るのである。難波から飛鳥の都への本道になつて居るから、日によつては、相応な人通りが
に替つて居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、
\しさを尽した宮殿が建ち並ぶ事になつた。近い飛鳥から新渡来の高麗馬に跨つて、馬上で通ふ風流士もあるには
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もゝつたふ 磐余ノ池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
のだつけ。さうだ。訳語田の家を引き出されて、磐余の池に上つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい、
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二度づゝ、其外週り年には、時々鹿島・香取の吾妻路のはてにある本社の祭りまで、此方で勤めねばならぬ。
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今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行はれる筈で、奈良の都の貴族たちには
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で、何のしるしなかつた。其があの、近江の滋賀に馴染み深かつた、其よ。大和では磯城の訳語田の御館に居られた
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嶽との間から、急に降つて来るのである。難波から飛鳥の都への本道になつて居るから、日によつては、相応な
思ひ出した。今日か明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中
北へ廻つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ処は馬で行かうと決心した。
てくれた。子古は、今日の日暮れまでには、難波まで行つて還つて来ると、威勢のよい語を、歯の隙いた口
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中の事である。早く、此都に移つて居た飛鳥寺から巻数が届けられた。其には、太宰府にある帥の殿の立願に
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をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女――おれの姉御。あの人がおれを呼び活けに
。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居寝りの夢を
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なら、とつい想像が浮んで来た。八年前、越中国から帰つた当座の世の中の豊かな騒ぎが思ひ出された。あれからすぐ、大仏
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を創める最初の足代になつた処だと言ふ伝へが、吉野や、葛城の修験の間にも言はれてゐた。何しろさうした大
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その父君も、今は筑紫に居る。家族の半以上は、太宰帥のはな/″\しい生活の装
、――あれはもう十七年にもなるかいや――筑紫で伐たれなさつた前太宰少弐―藤原広嗣―の殿に生写しぢやとも言
ところだけに、心得のある長老の、一人や、二人は筑紫へ下らずに残つて居るので御座りませう。
筑紫は、どちらに当るかえ
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女たちの噂した袈裟で謂へば、五十条の袈裟とも言ふべき、藕絲の錦の上に、郎女の目はぢつと据つて居た。やが
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つて居るだらう。此郷近くに田荘を持つて、奈良に数代住みついた豪族の一人も、あの日は帰つて来て居
なことは、此郎女――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて来てゐるのである。其も
を横に吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住民は、まだかうした官吏としての豪華な服装を
郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、
しい生活の装ひとして連れて行つてしまつた。奈良の家は、とりわけ寂しくなつて居る。
歴史の後、こゝ数十年やつと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでにはなつて居
寺と言ふ物が、奈良の内外にも幾つとあつて、横佩墻内と讃へられてゐる屋敷
、北の平野は見えない。見えたところで、郎女は奈良の家を考へ浮べることもしなかつたであらう。まして、家人たちが
見れば、奈良の方さうなが、どうしてそんな処に入らつしやる。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめた。此は、
ばならないと思つた。其で、今日昼の程、奈良へ向けて早使ひを出して、郎女の姿が、寺中で見出され
万蔵法院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならない。横佩家の人々の心を思うた
雲根と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。奈良の宮に御座ります 日の御子さま、其前は藤原の宮の
奈良の都には、まだ時をり、石城と謂はれた石垣を残して居る
姫大尊様がお立ち遊ばし、四年目には、奈良都に宮遷しがあつた。ところがまるで、追つかけるやうに、藤原の
の神聖を誇つた者どもは、其家職自身が新しい藤原奈良ノ都には次第に意味を失つて来てゐる事に、気がつい
ば、東大寺の四天王像の開眼が行はれる筈で、奈良の都の貴族たちには、寺から特別に内見を願つて来て居
奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した広いものであつた
怒りの滝のやうになつた額田部ノ子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和ノ国にも断つ
其より外には、方もつかない。奈良の御館の人々と言つても、多くは此二人の意見を聞いてする
郎女様。如何お考へ遊ばしまする。おして奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも侯人や奴隷
身の家では古麻呂、身の氏に近い者では奈良麻呂、あれらは漢魏はおろか今の唐の小説なども、ふり向きも
思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人数な奈良の御館の番に行けと言つて還され、長老一人の外は、唯
。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計らはずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ね
女たちには、稀に男の声を聞くことのある奈良の垣内住ひが恋しかつた。朝は又、何もかも忘れ
上、もう二三日に迫つた八月の朔日には、奈良の宮から勅使が来向はれる筈であつた。当麻氏から出られ
中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が奈良の御館からとり寄せた高機を設てたからである。機織りに長けた女
其上、日に増し、外は冷えて来る。早く奈良の御館に帰る日の来ることを願ふばかりになつた。
だが、身狭乳母の計ひで、長老は渋々、奈良へ向いて出かけた。
郎女は、奈良の家に送られたことのある大唐の彩色の数々を思ひ出した。其
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近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも詣り深くおあり
呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の方が、愈池上の草
たと云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦。即