カストリ侯実録 / 久生十蘭

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地名一覧

ロンドン

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太子はカストリ侯爵の養嗣子になり、ロンドンにいる亡命貴族の幾人かを呼んで養子縁組披露のお祝いをしたが、

・ド・カストリ自著「薄倖なる太子の生涯に対する摘要」ロンドン・一八三六年)

リヴァプール

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適当な場所ではなくなった。一八一六年二月、太子はリヴァプールから船でナポリへ行き、そこから南独逸へ入ったが、ウルテンベルヒ、バーデン、

ローマ

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首飾事件」に連坐してバスチーユに繋がれ、後、ローマで獄死した天才詐欺師バルサモ・ディオ・カリオストロ伯爵とルイ・シャルル・ド・カストリ

ナポリ

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はなくなった。一八一六年二月、太子はリヴァプールから船でナポリへ行き、そこから南独逸へ入ったが、ウルテンベルヒ、バーデン、バヴァリヤなどの国境

ベルリン

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かけていたウイリアム・ノオンドルフという乞食から身分証明書を買い、ベルリンの近傍のスパンドオという町で小さな時計屋を開業し、三十五歳になって

巴里

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一七九二年八月十日、巴里市民はルイ十六世に退位を迫ってチュイルリー宮を襲撃したので、

巴里の夏は短いが、とりわけその年は秋が早く、八月十日だ

エベール・リシュモンという男が、厖大な書類入れを携えて巴里にあらわれ、ノルマンディ及びナヴァール王領地の所有者たることを認知してほしいという

リシュモンが巴里王室裁判所へ提示したのは、出生証書、受洗証明書、爵位勅許状、

ブゥルボン家の紋章をつけた四頭立の馬車を乗り廻して巴里人士を驚倒させた。

その年の九月十六日、もう一人のルイ十七世が巴里へやってきて、同じように王領地所有認証の訴願をした。

感興もまたひとしお。新聞社は競争で花を贈るので、巴里の話題はこの一事に焦げつき、どちらが本物かという評論でごったかえした

二人のルイ十七世の登場は、背景が巴里であるだけに大きな舞台になり、どちらも役者がいいので感興もまた

境界に惻隠の情を催し、無代で代訴人をひき受け、巴里王室控訴院に上訴して争っているうち、一八三六年、ド・カストリは

公爵並にカストリ侯爵」という名刺をつくり、旧貴族と巴里名士の邸を戸別訪問をして助力を乞うたが、もう相手にする

を受けて投獄されたが、ド・カストリのほうも巴里市検事局によって詐欺、国法紊乱の廉で起訴された。ド・

にグライスというところで死んだ。アングレーム公爵夫人はその翌年巴里で死んだ。

事務所で拳銃で頭蓋に孔をあけて憤死した。「巴里控訴院に於てジュウル・ファーブルが故シャルル・ギュイヨーム・ノオンドルフの相続者の