鴎外の思い出 / 小金井喜美子
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なりましたので、大晦日には米や野菜を持って箱根へ湯治にまいりました。元旦にそこから寄越した葉書に、「私は割合
しましたけれどもう癒った。医者の勧めもあり、また箱根へ一週間ほど行きたいと思います」とのことです。
けれども四月二日にはまた、「箱根はさっぱり湯が出ないし、ひどく物資も不足だというから、湯の出る
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にも通い馴れた十歳位の頃でした。日曜日に本郷から帰って来られたお兄様が、床脇の押入れの中に積重ねてあっ
ん。やっと約束の日が来る前の晩に、巣鴨から本郷にかけて綺麗に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開先の目黒
話の合う人も少いのでしたから。その頃次兄は本郷で下宿住いでした。それで兄のいられた部屋を使えといわれます
は、福羽氏のお勧めで女学校に入りましたので、本郷の次兄のいられた一室に、祖母と一緒に住むようになりました。
を円くしてその話をしましたら、ちょうど土曜日で、本郷から来ていたお兄さんが笑って、「五十稲荷の縁日へでも連れて
いいました。握り拳くらいあります。それもおいしいですけれど、本郷には大きな缶がないので、湿るからといって、人数だけ買って帰り
の構内を通り抜けて、赤門を出て左へ曲って、本郷の通りへ行きますと、三丁目の角に兼康という小間物の老舗があり
兄の洋行中、私が学校へ通うために、祖母と本郷の下宿に暫くいた頃に、賀古氏は病気で入院していられ、
お墓は駒込吉祥寺で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものですから、庭の花を持っては、よくお参りし
。乗物の不自由な頃ですから、お祖母様と一緒に本郷の素人下宿に移り、そこから学校通いです。それでもう福羽邸通いはやめ
は今田舎にいるの」と聞きますと、「いいえ、本郷です」というのです。
もなく金を出して下すったのでした。その人は本郷の済生学舎の近くに的場を遣っていられました。
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があって、私の家は高台ですからよく見えます。大丸の棟を火が走ったかと思いましたが、助かりました。何ん
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で、左へ曲ると行止りになる袋小路でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日に帰っ
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雷門から車に乗って帰りましたら、まだ時間は早いのでした。祖母様は
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皆で分けて食べましたが、お父様は、「おれは川崎の大師で食べた事があるよ。そこが本家だといっていた。
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ます。その後側の裏門を出ると、桜餅で有名な長命寺の門前で、狭い斜めの道を土手に上ると言問です。
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その親切な人というのは九州の生れで、相当の暮しをしていたのですが、あまりに正直過ぎ
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と行止りになる袋小路でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日に帰ったばかり、それで
あったのでした。その準備もせねばならず、北海道からは発掘した荷物が来るのですから、繁忙を極めていました。
、エリスとのことでしょう。前にもいったように、北海道で発掘した人骨を詰めた荷物がつぎつぎと著きますので、それらは
。用談も手間取りますが、そうした中でも未開な北海道の旅行中に幾度も落馬したこと、アイヌ小屋で蚤袋という大きな袋
この二通の手紙は、一つは主人が北海道へアイヌ研究に出張した時のことらしく、時期も七月でしたし、
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しかしそれは形式上のことだそうで、十六日に今度は千駄木の宅の方へ暇乞に寄りましたら、もう出立したとのことでした
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いつか浅草寺の境内で、敷石の辺から数珠屋が並んでいます。奥の方の
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のことに移りますが、はつより先に、主人の郷里長岡の旧藩士で小林という家のちか子という十五になる子が、子守に
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花園町の家
東照宮下から動物園の裏門の方へ曲って、花園町というのに今度のお家があります。山を右にして左側がお
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て右へ行くと、間もなく大学の境を離れて無縁坂です。坂の下り口の左側に小店や小家が並んでいる中に、綺麗な
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八月で、船はフランス船メンサレエ号というのです。ベルリンへ著かれたのは十月十一日でした。出立後家族の者は、
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へ行く道になります。農科大学前の高崎屋は昔江戸へ這入った目印で、板橋で草鞋を脱いでから高崎屋まで、いくらの里程
お独りでした。お手廻りのお世話をさせるために、江戸でお召抱えになったのがそのお藤さんで、当時はそんな邸向の奉公人
のでしょう。御墓所は本堂の右手裏にありました。江戸で亡くなった方ばかりですから多くはありませんし、存外質素なのでした
て下さる時、いつもお参りになりました。お祖父様は江戸からお国へお帰りの途中、近江の土山の宿でお亡くなりになって
必ず何か為遂げますから、と泣いてお頼みになり、江戸へ出て国学を専攷して、世に許されるようになりましたの
祖父はもと佐々田綱浄といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝いた
ないそうです。歌は好まれたと見えて、始めて江戸へ出る時に富士山を見て、
順吉は脱藩後仏蘭西語を修め、忽ち上達して、江戸で徒を集めて教えていました。明治初年になって、前に述べ
祖父が病を押して江戸からお国へ帰る途中、近江の土山で客死せられたのは、文久元年
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は好まれたと見えて、始めて江戸へ出る時に富士山を見て、
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小石川の白山神社の坂を下りて登った処は本郷で、その辺を白山上
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。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟で本船ジェネラル
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、家の車で送ってもらって帰りました。その頃小金井は東片町に住んでいました。始めは弓町でしたが、家主が、「
這入るので、左へ曲ると行止りになる袋小路でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日
ただ養生一つで持ちこたえていたのでした。私が小金井へ来ました時、「よく評判の病人のところへよこしたなあ」と笑っ
取らむとぞ思ふ」としてありました。主人の小金井は額は嫌いなので、子供は見附けないのでした。
とあり、「当郡病院長澄川といふもの参り話に小金井は咯血したり云々と東京より申来との事に候。尤咯血したり
文中に見えています小金井の母は、長岡藩の名流の長女に生れたので、小林虎三郎氏の
私が小金井の人となりましたのは、賀古氏のお世話なのでした。兄は
小金井へ縁附いて、程過ぎてからのことです。少し落附いて何かし
小金井はこれという道楽のない人でした。時候のよい時に静かな田舎を
代かあったのですから、どれだか分りません。小金井は名のためではなくて、ただ気に入ったのを喜ぶのでした
袖の長い衣類を作ってやった、その時のです。小金井の家は戊辰の際に朝敵となった長岡藩の士族で、主人は貧しい
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するというのが嬉しくて、喜び勇んで出かけたのです。牛込のお邸には黒くて厳めしい大きな御門がありました。昔の旗本の
その牛込の帰りには長瀬時衡氏のお宅へ寄りました。飯田町辺でしたろう。
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ます。山を右にして左側がお邸です。もと上野山へ納める花を造っていたとのことですが、日当りはあまり好くないよう
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早く歿せられましたが、明治医界の先輩で、今の大阪の緒方医学博士の御一族です」としてあります。
緒方氏がまだ十歳くらいの頃、大阪の家の広い庭で遊んでいられた時に、父上が厠から出
が承諾しなかったと見えます。卒業後程なく緒方氏は大阪へ帰られました。
もと佐々田綱浄といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝いた森秀
のが、懸物になって残っていました。俳諧は大阪にいた頃点取ということを人から勧められたけれど、宗匠の人物に
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学校は大きな料理屋の跡らしく、三囲神社の少し手前でした。立木が繁って、大きな池があり、池には飛石
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もそこへ行かれるので、御一緒に駕籠町で乗り換えて東照宮下で降りました。何の御話をしたかよく覚えませんが、
東照宮下から動物園の裏門の方へ曲って、花園町というのに今度のお家
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よじ上り、鴨居を伝わって逃散ります。そして虚空から、「天王寺の妖霊星を見ずや」と歌います。その声が聞えると、高時
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行ってもらわれません。それでも亀井家のお墓所弘福寺が近くにあるので、まずそこへだけはと、お祖母様とお母様と
松平家の正面が弘福寺です。門前に小さな花屋があって、本堂までずっと長い石畳の道でした。
弘福寺のすぐ傍に牛の御前があります。ほんとの名前は牛島神社です。石
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向島も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺から水戸邸まで、土手が長く続いていましても、花の頃に掛茶屋
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溝川があって、道が三つに分れます。左は秋葉神社への道で割合に広く、右は亀井邸への道で、曲るとすぐ
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「御前様とは誰なの」と聞きましたら、「大乗寺の御前様でさあ」と、さもさも知らないのかというような顔を
車宿は通りへ出て一番大乗寺に近く、それこそ傾きかかった三軒長屋の端なのでした。崩れた棟
た時、「今少し広い家へ行きたいのですが、大乗寺が遠くない処と思うのでむつかしいのです」などと話しました。それが
もわるくなったらしく、宅へも引子ばかりよこしました。大乗寺への出入もやめたそうで、いつか田舎へ帰ってしまいました。僅か
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に建てたのですから、俗に雪月花によしというわけで、両国に花火のある夜などは、わざわざ子供を連れて見せに行ったりしました。ま
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は、わざわざお使で私に下すったのです。半襟は新宿御苑の蘭の花を染めた珍しいもので、幾十年を経てすっかり色は
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もあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷に住んで、南画の名手として知られた女の画家でした。
です。卒業の宴会が松源という料理屋であった時、下谷一番といわれる美しい芸者の持って来てくれた橘飩を、その女
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が何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は、水戸様の前から吾妻橋を渡って、馬道を通って観音様の境内へ入る
向島も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺から水戸邸まで、土手が長く続いていましても、花の頃に掛茶屋の
し、逢ったことはありません。あまり嫌ですから、水戸邸の方から行ったこともありましたが、道のりが倍もあって
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られました。井上通泰氏のお弟子で、井上氏が岡山へ赴任せられた頃からの熟知なのでしょう。それは井上氏の機関
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とか宗教とかの本を読まぬ為めと存候。福岡にて買ひし本の内に『伝習録』といふものあり。有触れたる者なれ
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に賀古氏の別荘が出来た時、兄もその隣の松山に造りました。その二つに鶴荘、鴎荘の名を附けて
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「不忘記」拝見仕候。先達て奈良、芳野へ御旅行の折、御母上様の御墓所に御参詣の
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千葉あたり田舎の家屋は昔に変らねど、人心のいやに青竹の手すり然
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上に、その墓所をも一々踏査したのでした。京都府立図書館在職中に筆を執り始めてから、完成までに二十年の
お兄様は人々の伝記を起草せられたので、京都に関することを度々照会して、手紙の往復が絶えませんでした。
上京して、一カ月ほども看護しました。潤三郎の京都にいた間にお兄様は人々の伝記を起草せられたので
でした。またその間にお母様の御病気の時は、京都から上京して、一カ月ほども看護しました。潤三郎の京都にい
年まででしたが、その間お母様は楽しみにして、京都へお出かけになったものでした。またその間にお母様の御病気の時
潤三郎が京都府立図書館に勤めていましたのは、明治四十三年から大正七年
お片附になったのです。そのお支度をするとて京都に滞在していられたように聞きました。そこはすぐに不縁に
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綱浄といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝いた森秀庵
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で、後に西氏に語りましたのには、或日金沢の士が二、三人尋ねて来て、どこかで酒を酌んだ
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私が八つ位の時です。夏の事で、千住の家の奥庭の柿の花の頻りに降る下で、土いじりをして
も種々工夫したり、その手入にかかっておりました。千住で郡医となって、向島へは折々御機嫌伺いに出るのでした。
千住大橋に近く野菜市場があって、土地の人はヤッチャ場といいました
私の家は北組といって、千住一丁目の奥深いところでしたけれど、まだあたりの白まない内から、通を
れましたが、全体にひどい好き嫌いはないようでした。千住に住んだ頃は、川魚が土地の名産なので、市中からの
歳位でしたろう。その頃北千住に住んでいました。千住は四宿といわれた宿場跡なのです。町は一丁目から五丁目
へ出られて間もない明治十五年頃でしたろうか、千住の家で書斎にお使いの北向の置床に、横物の小さい幅を懸け
られる父の後姿も寂しそうです。向島時代と違って、千住では話の合う人も少いのでしたから。その頃次兄は本郷で
兄が洋行されてからは、千住の家はひっそりとしました。病家へ出かけられる父の後姿も寂しそう
ようになりました。入学試験があるというのですが、千住の小学校を出たばかりで世間知らずで、物は試しということが
学校の留守には、いつも裁縫をしていられます。千住から次々と仕事を持って来て、少しも手をあけてはいられ
のです。ちょうど学期の終の時でしたから、引上げて千住へ帰りました。
時で、上野の両大師の際へ引越したので、千住から通うのには近くなったので好都合でした。尤もそれも少しの
私は早くから千住の家へ行って待っていました。兄はあちこち廻って帰られた
ので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行ったという知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事
行かれません。それに較べると主人は気楽ですから、千住では頼りにして、頻りに縋られます。父は性質として
のことは、すらすら運ぶ用事とは違いますから、主人も千住へ行くと、夜更けに車で送ってもらうのです。用談も手間取りますが
あの長い土手をうねうねと、鐘が淵から綾瀬を越して千住まで通うのは、人力車でもかなり時間がかかる上に、雨や風の
私たちが向島から千住へ引移ったのは明治十三年でした。移った家には区医
千住の家は町からずっと引込んでいて、かなり手広く、板敷の間が多い
千住の家では、凸凹の金属の板を張ったのに、細長くした
町の外科病院の娘さんで内田さんといい、一人は千住名物軽焼屋の娘さんで牧野さんといいました。二人とも銀杏返しに結っ
広くもない往来は、朝の内から厳重な警戒です。千住まで皇后陛下の御見送りがありました。それで学校はお休みだったの
明治天皇の東北御巡幸の時は、千住方面から御出発でした。広くもない往来は、朝の内から厳重な
私が始めて尋ねた時には、千住からお母様が職人を連れて来ていられました。間もなく輿入れなさる
女との作ったものでは満足出来ないでしょう。お母様が千住からお持ちになったものはあるのですけれど、有合せの材料で何か
「千住の家も気になるから」と、まだお兄様のお引けになら
さんが見たいと仰しゃるのはお道理と、ちょうどその頃千住にお医者の会があって、お兄様に何かお話をと
なのです。それから団子坂に移りました。それまで千住で郡医などをしていた父は年も老いたので、兄
建増をするために、今まで住んだ千住から大工を連れて来たり、売買の仲介をした坂下の千樹園と
にしていた私もまだ小さいのでした。父は千住で開業医をしていられて、人出入はあるのですけれど、私は
祖母は一心に裁縫していられます。次から次と千住から持って来られるので、仕事の絶えたことがありません。裁縫
広小路へ出て右へ曲った右側に、千住の軽焼屋の店が出来たので、ついでに見に行きました。
見えます。そこで乾いた品を少し買います。祖母が千住へ行く時、弟への土産のためです。木の葉の麺麭といって
行動を共にするのでしたから、お二人とも向島や千住の家へも来られ、泊りなどもなさったので、皆お親しくし
その頃千住に佐藤応渠という人がいられたのに、お兄様は詩
も無事なるはうれし。扨本月一日大洪水、堅固なる千住橋並吾妻橋押流し、外諸州の水災抔惨状、こは追々新聞等にて
心を傷ましむるのみ」とありますが、もうその頃は千住にお住いではなかったでしょう。終りの御様子は存じません。その
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尤も向島に住んでお出なのが、お年寄で食養生をなさるのに御
にかかっておりました。千住で郡医となって、向島へは折々御機嫌伺いに出るのでした。開業していましたが、
だ土地がなつかしくて見廻しました。綾瀬を越して行くと向島の土手になって、梅若や白髭の辺に出るのです。お兄様
て、あちこちで蛙がころころ鳴いて、前に長く住んだ向島小梅村の家を思い出しました。いつまでも飽きずにじっとしてい
「さっきのあそこからは、向島の方は見えないようですよ。曇っているせいかしら。」
森の家が向島小梅村に住んでいたのは、明治十二、三年頃ですから、
一緒に暮した幼い時の話をとのことですから、向島の小梅村に住んでいた頃のお話でもいたしましょう。明治十
を紹介して、だんだん病家は殖えるのでした。その頃向島にも医師会が出来て、おりおり寄合があり、扱った珍しい患者とか、
向島に住んで小学校にも通い馴れた十歳位の頃でした。日曜日に
ていられたのです。初めは区医出張所といい、向島から通っていましたが、それが郡医出張所となり、末には
向島に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでした
持って来てくれた菖蒲の花を見て、遠い昔向島の屋敷の隅にあった菖蒲畑を思出しました。そこは湿地のため
ました。病家へ出かけられる父の後姿も寂しそうです。向島時代と違って、千住では話の合う人も少いのでしたから。
向島界隈
向島も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺から水戸邸まで、土手
二回位家中の家族を呼んで饗応せられるので、向島中の芸者が接待に出ました。そんな時など、家老の奥さんだと
は梅林でした。梅林の奥に掘井戸があります。向島は湿地で、一体に井戸が浅いのですが、それでも水はよい
彼も気が進まず、たとえ辺鄙でも不自由でも、向島に名残が惜しまれるのでした。
を得て、引移ることになったのです。いつか向島にも五、六年住馴れて、今さら変った土地、それも宿場跡
医者が出張するのでしたろう。お父様も週に二回ずつ向島から通っていられましたが、あの長い土手をうねうねと、鐘が淵
私たちが向島から千住へ引移ったのは明治十三年でした。移った家には
両方の根を痛めないようにと頼んだのでした。向島での病人は、みんな居廻りでしたが、ここでは近在から来る人
丸薬では向島時代が思出されます。いつも夜なべ仕事に拵えるので、お父様がお薬を
『冬柏』第七号の消息中に、月夜の村芝居、向島奥の八百松に催した百選会の帰るさに、月の隅田川を
、いつも行動を共にするのでしたから、お二人とも向島や千住の家へも来られ、泊りなどもなさったので、皆お
ました。思えば遠い遠い昔です。私どもが幼くて向島に住んでいた頃、土手の桜の花の盛りに、やっと歩かれる
傍に納めました。年が立って兄も亡くなられ、向島の墓も都合で三鷹へ移されました。それから幾らも立たない頃
立派に再建されています。墓地の隅には、向島に住み始めた頃に祖母が郷里から土を取寄せて、標ばかりに建て
見せられるので、ひどく感心しておりました。一緒に向島のボートに行ったり、その帰りに浅草辺を散歩したりするのでした
私が小さくて向島に住んでいた頃、父が医者だというので、或人が、
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見えないかも知れない、曲っているらしいから。今度は堀切の辺へ行って見ようね。」
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の家で、質素に暮していたのでしたから、東京へ出るといっても、少しの荷物しかありません。家内中戦に
懸けてあったこともあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷に住んで、南画の名手として知られた女
、維新の騒がしさが静まって、殿様始め重な家来たちが東京住いになりました頃、御殿を下ったお藤さんは清水さんの奥さんに
東京へ来ましても、学校へ通うのにはまだ間がありますし、
長澄川といふもの参り話に小金井は咯血したり云々と東京より申来との事に候。尤咯血したりとて必ず死すとも限ら
おきみ様事、東京女子師範学校中の高等女学校に募集致し候専修科と申へお出し候はゞ如何
あったので、それもよかろう、あの目の悪い人と東京で暮すのでは骨が折れようからと思いました。
のお支度をそっくり持って来られたのです。兄が東京勤めになって、家族が一緒に住み始めた頃、母は、「いろいろ
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やさしく読める本でした。学校も始めはお茶の水でしたが、上野になり、一ッ橋に移って行き、その間に校長も先生もたびたび代ります
」といいましたら、「私も」といわれます。上野不忍池で催す蓮の会へ案内を受けたのです。会主の大賀一郎
と呼びました。その頃学校は方々へ移る時で、上野の両大師の際へ引越したので、千住から通うのには近くなっ
なさるので、朝上野、それから陸軍省、それからまた上野へというようなお生活でした。
部主任でしたから、洋画の鑑査もなさるので、朝上野、それから陸軍省、それからまた上野へというようなお生活でした
御隠殿下の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の方から曲り曲って這入るのです。あたりは広々としてい
でしょう。最初に兄が一家を構えたのは根岸最寄で上野御隠殿下の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の
が、お兄様は間もなくその家をやめて、上野の山下にある赤松家の別邸へ移られました。あの汽車の音に
ます。山を右にして左側がお邸です。もと上野山へ納める花を造っていたとのことですが、日当りはあまり好く
名所であった蛍沢や、水田などを隔てて、遥かに上野谷中の森が見渡され、右手には茫々とした人家の海のあなた
をしました。その時始めて馬車に乗りました。上野の八百善へ行ったのでした。料亭も、その時始めてはいっ
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、誰にでもやさしく読める本でした。学校も始めはお茶の水でしたが、上野になり、一ッ橋に移って行き、その間に校長も
石本さんとおっしゃるのは、大臣石本新六氏の夫人です。お茶の水女学校の出身者の内では有力な方でした。
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由緒のある本のことを思って残念がりましたが、目黒の家の上も飛行機が毎日通るのですから、ここまで持って来て
に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開先の目黒で書入れのある本や、由緒のある本のことを思って残念がりまし
。どことて空襲の来ぬ処があるはずもなし、やっと目黒辺で地方へ疎開した人の家を探して移ることにしました
はつきり書きて遺したく、それぞれ調べ中に候。昨日も目黒の奥の方の又奥迄人を尋ねまゐり候。どこ迄行きても
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来ません。やっと約束の日が来る前の晩に、巣鴨から本郷にかけて綺麗に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開
いう前日、四月十三日の夜の大空襲で、白山から巣鴨まで、残らず焼野原となってしまいました。長年心懸けて貯えた書物
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白山上は団子坂から来た道、水道橋から来た道、高崎屋の方から来た道と、三つが一緒
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ずんずん行っておしまいになりました。吉祥寺の方からお帰りになるのでしょう。馬場はもとより、宅の並びにも
吉祥寺の横手の門まで来ると、かなりな家の葬式でもあるのでしょう、
、さて荷物運搬の便がありません。曙町の通から吉祥寺前まで、広く取払われて道路になるので、私どもの家並は皆
お墓は駒込吉祥寺で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものですから
に墓参に行きましたが、まだ道順もよく分らず、吉祥寺で省線を降りてから、禅林寺まで行く道の細い流の中で障子
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「いや、あれは神田の方で買った古本に落丁があってね。ちょうどその本があそこに
今度の家には弟も同居して、神田の学校へ通っていますし、赤松さんのお妹さんが二人、皆
「痛みも取れてあまり退屈だから出て来ました。神田の本屋に用があるので、ついでに寄ったのです」というの
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のは、きっと油濃くないからでしょう。見ている私は浅草海苔をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした
向島に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は
まあ、お喜びよ。今度の日曜には、兄様が浅草へ連れて行って下さるとさ」とおっしゃいます。
いつか浅草寺の境内で、敷石の辺から数珠屋が並んでいます。奥の
岸へ上った辺は花川戸といいました。少し行くと浅草聖天町です。待乳山の曲りくねった坂を登った上に聖天様の社
。私も一度だけ連れて行かれました。その時は浅草でした。私はお父様と一緒に家の車に乗り、書生さんたちは
ました。一緒に向島のボートに行ったり、その帰りに浅草辺を散歩したりするのでしたが、明治二十二年の秋でしたろう、
玉山という彫刻師の作で、この人は天保の頃浅草で生れ、初めは僧侶でしたが、象牙の彫刻を好んで種々の動物
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ですから、私は小学生で十歳位でしたろう。その頃北千住に住んでいました。千住は四宿といわれた宿場跡なの
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木を撫でるのでした。木戸を出るとすぐ田圃です。曳舟通が向うに見えます。或年長雨で水が出て、隣の鯉
なったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから、私の
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は新しい法被を作って与えました。帰朝の日には新橋まで迎いに出すという心組でした。
になって、十四日に出立というので、主人が新橋へ参りましたら、大勢の見送りがあったといいます。しかしそれは形式上
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のは同じ宗旨のお寺をと探した末に、やっと三鷹村の源林寺と極まり、それまでに亡くなったお父様、お兄さん、お兄
年が立って兄も亡くなられ、向島の墓も都合で三鷹へ移されました。それから幾らも立たない頃に墓参に行きました
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「西新井といったね。」
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いても、お家などは知らなかったのです。後に上野広小路にお店が出来て、帳場に坐っていた丸髷のおかみさんがその人
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は茫々とした人家の海のあなた雲煙の果に、品川の海も見えるのでした。その眺望に引きつけられて、幾度も来て
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、兄や賀古氏が、小出、大口、佐佐木氏等を浜町の常磐にお招きして、時代に相応した歌学を研究するために
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とありますから、随分古いものなのです。賀古氏の小川町の病院は震災に焼けましたが、蔵が一つ残りましたので
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お墓は駒込吉祥寺で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものです
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二十七日にやっと返事が来ました。「あれから帰りに新富町の友達の家で話す中に雪となり、帰ったら病気が再発して
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このはつは大宮在の土地でも相当な農家の娘で、町の大きな染物屋に嫁い
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田草取りなのでしょう。処々に水が光っています。隅田川も見えはすまいかと、昔住んだ土地がなつかしくて見廻しました。
。そろそろ山の宿の方に近づきますと、綺麗に見える隅田川にも流れ寄る芥などが多く、それでも餌でも漁るのか、鴎
、或秋の夜に兄弟両人して月に浮かれて、隅田川より葛飾にわたり、田畑の別なく、ひと夜あるき廻り、暁に至りケロリ
の八百松に催した百選会の帰るさに、月の隅田川を船にて帰られたくだりを拝読して、今より五十年余り昔の
もよくその辺を散歩したものでした。その頃の隅田川には花見船が静かに往き来していて、花びらがちらちらと川の
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立ったる日本の国に、昔嘉永の頃と聞く、相州浦賀にアメリカの、軍艦数隻寄せ来り、勝手気ままの条約を、取結んだるその