神仙河野久 / 田中貢太郎
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「ここは、吉野山の奥で、昔から人跡の到らない処であるから、仙道修行にはまた
ぢかと聞えた。尊は門人達に、「熊山、吉野山、伯耆の大山などには仙境があって、吉野山の神仙と、熊山の神仙
熊山、吉野山、伯耆の大山などには仙境があって、吉野山の神仙と、熊山の神仙とは常に往来している」と話したこと
伺いをたててその後の河野のことを訊いた。河野は吉野山の仙境に住んでいて時どき熊山の仙境に往来しているとのことで
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明治七年の四月になって河野は大阪から泉州の貝塚へ移り住んだ。その時分から彼の敬神の考は非常に突きつめ
翁の許へ送って来た。河野は後に堺から大阪へ往って西区紀伊橋西北詰粕谷治助と云う人の許にいた。
であった。宮地翁はその時、教部省の命で大阪に在勤して神道の講義をしていた。河野が宮地翁の講義を
してのことであった。何かの用事で東京から大阪へ往っていた宮地翁は、中の島の知己の家で河野の寄寓
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、山へ入ったときは四十あまりであった、初めは富士山へ登って、富士山の神仙について、数百年の間、道を学び真
ときは四十あまりであった、初めは富士山へ登って、富士山の神仙について、数百年の間、道を学び真を修めたから、
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八月の六日になって、河野は大和の葛城山へ登ってその頂上で修練を始めた。草の上に安坐趺跏して、己
て紀州路から泉州の牛滝と云う処へ越え、それから葛城山へ往った。葛城山ではまた二日間修業して、十二日の午後三時
の牛滝と云う処へ越え、それから葛城山へ往った。葛城山ではまた二日間修業して、十二日の午後三時比貝塚の寓居へ
河野はそれを初めとして、その後も度度葛城山へ登り、吉野へも往って照道寿真に面会した。照道寿真もまた時どき河野
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これを証明いたしました太美万彦氏も、今日にては安仁神社の宮司に進みて、現職の人であります故、最も慥かな話ですから
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にあった藩の蔵屋敷の定詰であったが、御一新後大阪府の貫属となって江戸堀に住んでいた。非常な敬神家で、
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を宮地翁の許へ送って来た。河野は後に堺から大阪へ往って西区紀伊橋西北詰粕谷治助と云う人の許にいた
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いたと云う宮中掌典の宮地嚴夫翁が明治四十三年、華族会館で講演した講演筆記の写しの中から得た材料によって話すことに
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て何を教わっても覚えられなかった。某人が「安芸の厳島の弁財天へ、火のものを絶って祈願を籠めると、必ず覚えが
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備前の国赤磐郡太田村大字万富小字梅という処に山形尊と云う盲人があった。その盲人はその時三十歳であった。
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日ばかりしてのことであった。何かの用事で東京から大阪へ往っていた宮地翁は、中の島の知己の家で
明治三十四年五月、東京麹町区飯田町の皇典講究所では神職の講習会があった。宮地翁
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明治三十四年五月、東京麹町区飯田町の皇典講究所では神職の講習会があった。宮地翁は